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手塚治虫「火の鳥」 火の鳥総論 前編

一言でこの作品を評価するならば、まとまりのない曖昧な作品と言える。俗に人道主義や輪廻転生といった表面に目が奪われ気味で、読者自身、作品の全体像を掴み損ねていて、「傑作」「名作」という言葉ばかりが先行し

手塚治虫「火の鳥」 火の鳥総論 前編

はじめに
 一言でこの作品を評価するならば、まとまりのない曖昧な作品と言える。俗に人道主義や輪廻転生といった表面に目が奪われ気味で、読者自身、作品の全体像を掴み損ねていて、「傑作」「名作」という言葉ばかりが先行している。そうした言葉が読む上で先入観や偏見を生じさせ、作品を客観的に評する機会を奪っているように思えてならない。どの部分が「名作」たりえるのか、どの部分が「傑作」といえる根拠なのか、私にはまったくわからない。今回、あらためてこの作品を読み直し、その思いは一層濃くなるばかりで、「火の鳥」が求めた主題は一体なんだろうか、という素朴な疑問がふわりと浮かんできた。漂うつかみどころのない疑問の解答を求めて、私はこれから「火の鳥」という問題に取り組む。戻る


目次
はじめに
「黎明編」の不安定な基盤
「未来編」という苦し紛れ
「ヤマト編」で居直る
「宇宙編」の小細工
「鳳凰編」の真意
「復活編」が拒否したもの
「羽衣編」のつまづき
「望郷編」の汚点とは
「乱世編」は意味がない
「生命編」が見詰める人間
「異形編」の上手さ
「太陽編」の価値
あとがき


一 「黎明編」の不安定な基盤
 「火の鳥」が描かれた背景は手塚ファンならずとも周知のことだろう。白土三平「カムイ伝」に対抗し、手塚なりに日本の歴史の不条理な様をあぶり出そうとした、いわば歴史物語なのである。1967年、「COM」誌上で連載が始まった「火の鳥 黎明編」は日本の歴史の出発点・邪馬台国の衰亡を描いた。特別に強調することもないが、「COM」版の黎明編が描かれる以前に、漫画少年版「火の鳥 黎明編」(1954年)が雑誌の休載で未完ながら存在していて、この中で手塚は「火の鳥」の主題を述べている。すなわち「日本人の祖先が、どこからやってきたか」。「火の鳥」の意味はこれに収斂される。そして「カムイ伝」に刺激を受けてライフワークに至る「火の鳥」を再び描く決意をしたに違いない。「カムイ伝」は差別するものと差別されるものの闘争を描き、差別するものの正体は差別されるものではないか、という深い意味があり、それは「徳川家康は被差別者出身だった」という劇中で明らかにされる衝撃が証明している。この展開は、手塚がいくつも描いてきた「対立する二者の和解と闘争」、たとえば「鉄腕アトム」は人間対ロボット、「ジャングル大帝」なら人間対動物、「〇マン」なら人間対〇マンなどの作品に共通する主題で、別段恐れるような内容ではなかったと思うが、承認欲望の強い手塚は、物語の主題だけでなく劇画にも対抗できるものを描こうと焦っていたのではないか。「火の鳥」が、それにもっとも相応しい物語だったのだろう、前述の通り、「火の鳥」の出発点は日本史と日本人の根拠である、ひいては天皇制にまでも踏み込んで描くことができ、「名作」以外に「問題作」と呼ばれたかもしれない可能性を充分に含んだものだったのだ。しかし、そうした機会に手塚は気づかなかったのか、「火の鳥」はその出発点「黎明編」ではやくも破綻の兆しを見せている。問題点は三つある。
 「黎明編」が日本書紀や古事記に魏志倭人伝の記事を下に描かれているのは言うまでもないが、作品の内容とそれらをいちいち比べることはしない。問題のひとつは、劇中にしばしば見られるつまらないギャグである。実際につまらない、手塚ファンの私でも弁解しようがない。これが「カムイ伝」に対抗して描いたものとは到底思えないし、劇画を変に意識したのか、時折舞台まがいの構成がみられる。どうしてだろうか。当時を知らない私にはただ想像するしかない、つまり、手塚は単なる娯楽作品を描いたに過ぎなかった、ということ。「COM」は当然商業誌であり、いくら手塚の主宰であろうと売れなければ休刊もやむをえない。売れるためには一般受けしやすい作品を描く必要がある。「ガロ」は「カムイ伝」の存在だけで学生の支持を得ていたが、「COM」のよりどころはそれ以外の漫画の読み手しかいない。当時の漫画読者が今ほどではないことを考えると、手塚の選択は仕方なかったかもしれない、いずれも私の勝手な推測に過ぎないけれど、「黎明編」が本当に面白かったか、ひいきせずに考えると「たいしたことはない」という率直な感想にたどりつく。
 「火の鳥」全体の分岐点-「カムイ伝」と対する歴史物か一般受けしやすい娯楽作品か-がどこかと考えると、物語中盤での主人公ナギと火の鳥の会話かもしれない。火の鳥の生き血を狙うナギが、火の鳥に命とはなんぞやと問われる場面である。二者の会話はかみ合うことなく一方的に火の鳥が命に長いも短いもないと語り、「生きている喜びを見つけられれば、それが幸福じゃないの?」と諭そうとするものの、ナギは聞き入れずに火の鳥を追うのである。「火の鳥」といえば、とかくよく言われる生死の問題がここで語られるが、「黎明編」の中で何やら浮いた場面に思う。手塚ほどの力を持った作家が、火の鳥自身にこんなことを言わせるのがしっくりこない。「黎明編」は邪馬台国の衰亡を描く一方で、侵略者と侵略されるものの対立・侵略されるもの同士に起こる支配するものと支配されるものの対立と、歴史を語る上で欠かせない要素を十分持っていて、物語の材料自体は「カムイ伝」と対抗でき得た。火の鳥の言葉も登場人物の動きから読者に伝えることが出来たはずだ。つまり、火の鳥とナギの会話の場面はいらないのである。火の鳥はあくまでも何かの象徴(それがどんな象徴なのかは読者個々人が判断すること)として描きつづけていればよかったと思う。これが二つ目の問題である。
 三つ目の問題は表現力の乏しさである。まず、戦の場面にリアリティがまるでない。侵略者が乗る馬はどこまでも漫画的で、殺陣は単調に描かれ、迫力はまったくない。ナギが殺される場面に至ってはちっとも感情を動かせず、演出に工夫がなく、印象が薄い。「カムイ伝」と比べるまでもなく、手塚が漫画に行き詰まっていた様がわかる。当時の漫画の表現力の限界点だったのかもしれない。以後、劇画との融合によって新たな表現を得る手塚も、この時点では、すでに過去の人だったに違いない。
 しかし、物語自体は娯楽作品としてのまとまりがある。国の衰亡の傍らで展開されるグズリとヒナクの夫婦が必死に生き延びる様子は、卑弥呼が不死を望んだのに対し、なにがなんでも生き延びて子孫をたくさん残す、という本能を見せ付けている。夫婦の子・タケルが物語を締めくくる構成は秀逸である。だが「黎明編」の長所はこれだけかもしれない。歴史を捨てて娯楽に向かう手塚が、続編に「未来編」を描いたのは当然の結果だったのだろうか。私はそう思わない、後に描かれる「鳳凰編」で手塚は本当に描きたかった歴史の矛盾を見事に暴くからである。
 だが、世間ではそう受け止められていない。歴史物か娯楽作品か、という曖昧な態度のままに描き始められた「火の鳥」は、歴史と娯楽の融合も果たせず、「カムイ伝」の対抗意識から遠く離れたはっきりしない作品としての道を歩み始めたのである。だから手塚はことさら「輪廻転生」「永劫回帰」といった言葉を吹聴し、読者を「歴史」(つまり「カムイ伝」)から遠ざけようとしたのかもしれない(邪推)。


二 「未来編」という苦し紛れ
 「火の鳥」を単なる娯楽作品に貶めてしまった以上、あとは物語の構成力で勝負するしかないが、世界的にも群を抜く卓越したストーリーテラーの手塚・バーゲンセールができるくらいのアイデアを常に持っていた手塚にとって、そんなことは容易かったに違いない。だから、想像力を存分に発揮できるSF・未来を舞台にした「未来編」を描いたのだろう。しかしながらラストの「黎明編」とつながるような展開は、なにやら深い意味を与えようとする下心が見えてしまい打算的である。
 「火の鳥」に関する手塚本人の解説は多い。その中で、「火の鳥」は最初にはじまりと終わりを描き、あとはその間の物語を描く、といったことを語っているが、言い訳にしか聞こえない。「火の鳥」の最初の意義を捨てた以上、「火の鳥」はどこまでも主題の見えない作品になる。やがて「カムイ伝」への対抗意識も消えたのだろう。「生死」という身近な問題を、壮大な物語の中で語ってしまおうという表面上の厳かさ・漫画でそれが表現できてしまうことに漫画を日頃読まない人は驚いたのかもしれない。つまり、手塚は娯楽作品としての「火の鳥」に成功したといえる。ことさら解説を加えて「火の鳥」をこれから読もうとする人々に先入観を与えれば、果たせなかった主題を隠すことができる。実際、「COM」で黎明編の連載間もない頃に「これは生と死を問題にしている」と牽制しているのである。これは明らかに、漫画少年版「火の鳥」の主題とは違うのだ、という訴えである。何故、生と死の問題に火の鳥が必要なのか。たとえるならば、交通事故の原因を宇宙レベルで説明するような、面倒なまわりくどさがある。
 「未来編」では序盤に火の鳥自らが登場して、読者だけでなく登場人物・猿田博士にまで先入観を与えるという、どこまでも言い訳がましいことをしている。しかも火の鳥は地球の一部だと断言しているのだ。あれ? 火の鳥は宇宙生命を顕現したものではなかったのか? と私は思ったが、そうか、地球の一部なのか、だから地球ばかりに気を向けているのか、と納得したものの、では「望郷編」は単なる暇つぶしかお節介なのか、とひねくれてしまう。表現においても「黎明編」と大差ない乏しさで、たとえば猿田博士が絶命する場面は、ばかばかしい。「ばっかもん」と叫んで死ぬのである。全然リアリティがない。
 そもそも「未来編」の展開はつまらない、他の読者はだませてもひねくれた私はそうもいかない。物語自体を独立した作品と見るならば、誰もが読める面白さがあるけれども一様に中途半端である。なにより火の鳥の最後を締める物語なのだから、別段「黎明編」の最初の場面とつなげる必然性なんてない。「輪廻転生」という言葉にだまされてはならない。これは生死を主題に置きながら歴史を描かざるを得ないという抜け出せない葛藤の中で発想された苦し紛れなのだ。
 人類滅亡。こんなことをする必要はまったくないが、これは当時の時代背景の影響かもしれない。安保闘争、成田闘争など、今の体制を根本から作り直そうという向こう見ずな運動、しかも学生たちが本気で日本を変えようとしたのか私はわからない。私事ながら、私の両親は団塊の世代にもかかわらず学生運動に関心のない無知(あるいは無恥)な人間である。それを知って、こんな若者も当時はいたんだな、むしろこういう奴らの方が多かったのではないか、「政治の季節」とくくって自分たちの青春時代を美化しようとしているのではないか、と私は懐疑的になった。そこから、「火の鳥」も単に格好つけているだけではないか、という疑念が浮かぶ。死にかけた人類、という発想からそのまま人類を死なせてしまうのだから簡単な話である。冒頭で述べたように、手塚ほどの作家ならば、もっと奔放な、私なんかの想像の及ばない・文句を言わせない物語を描けたと思う。それが手抜きかなんなのかわからないが、表面だけきれいに整えて、底は汚く澱んでいる作品になってしまった。
 火の鳥とは何だろう、と考えると、とりあえず「火の鳥」の狂言回しである。だが、火の鳥は不死を求める・自分の命を狙う人間を容赦なく殺している。「長生きしてどうするの?」という問いに対し私は言いたい、「あんたこそ永遠に生き続けて、人間を一体どうしたいんだ」と。そして、「未来編」を締めくくる「命を正しく使ってくれるように」という火の鳥の言葉が意味するものはなにか。「黎明編」では、生きる喜びがあればそれで幸せだろうと言っていた火の鳥が、ここでは神様よろしく人間を弄んでいるようにしか見えない。手塚先生、命を使うとはどういう意味なのですか。
 そのヒントは「生命編」にあるのだろうか。


三 「ヤマト編」で居直る
 予告通りに「黎明編」と「未来編」の間の歴史が描かれ始める、その一歩がヤマトタケル伝説を下敷きにした「ヤマト編」だ。
 「ヤマト編」の作風は完全に居直っている。そこには漫画として面白ければよい、という安直な姿勢があって、「カムイ伝」への対抗意識も「歴史」への執着もなく、単純な娯楽作品として成立しているに過ぎない。さらに過去の二編で積み上げた「生命とはなにか」という世間で認識された主題まで放棄して、「ひとつの古墳からイメージを膨らませて、これだけの物語を作ったぞ」という倣岸な態度がうかがわれる。この作品を新人漫画家が描いたとしたら、劇中頻繁に演出されるギャグに辟易し、擬人化した動物には新鮮味を感じず、パロディのつまらなさに閉口したと思うと、結局手塚だから許された作品にしか思えない。
 漫画の表現の限界を意識しながらも描きつづけなければならない悲劇であろうか。まず第一に、主人公・オグナが火の鳥に笛を吹く場面に表現する意欲がない。音符を並べるだけの単純な構成で、火の鳥が何故オグナの笛に惹かれたのかは全くうかがいしれない。後にオグナは、曲には人間の命のはかなさ・悲哀が込められていることを火の鳥に語るが、曲の印象が音符の羅列のためにそんなことは想像できない。音楽を表現する難しさは言うまでもないが、手塚がそれを成すまでには晩年の「ルードウィッヒ・B」まで待たねばならない、いくら天才といえども、手塚の力は当時まだ発展途上だったのである。第二に、相変わらず迫力のない格闘場面である、オグナとイマリの地上7、8メートルの丸太の上で行われる丸太の打ち合いを例に見れば、人物の動きに流れるような躍動がない。理論的に人物の動きを説明できないのである。これは他の格闘漫画と比べれば明らかだが、手塚は根本的にスポーツ漫画が描けない、という欠点があった。手塚には「あしたのジョー」も「巨人の星」も描けないのである。第三に、思い出したように挿入された歴史解説である。「歴史は人間の都合によっていかようにも変えられる」という意味を述べるのだが、隠したはずの主題をここで自分から明言している。わからない。「生死」が全編通した主題と言いながら、すっかり居直った結果、「ヤマト編」は歴史(というより内容は神話に近いが)の矛盾点を掘り起こそうとでもしたのだろうか。あるいは歴史と娯楽の融合を試みたのだろうか、いずれにしても作品の評価・つまらなさになんら影響はない。
 さらに、物語終盤の王墓建設は成田闘争を意識しているように思える。「ヤマト編」では当時の世相のパロディがいくつかあって、「火の鳥」の真意を見えなくしている。「火の鳥」は幾度も手塚自身により「生死を主題」とした壮大な人類史と述べられながら、この態度では本気で執筆する気があったのか疑わしくなる。大きな構想を打ちたてて、幾年もかけて描く継ぐならば、当然初期の作品は古くなる。となると当然、古くなっても今現在読むに堪え得るほどの普遍性がなければならない。「ヤマト編」には、その普遍性がない、全くない。刹那的な態度はおよそ「火の鳥」をこれからも描きつづける姿勢を大きく崩しかねない。もっとも、手塚はどんなに張り詰めた物語であろうと漫画の精神(いわゆるユーモア)を忘れなかったから、時折、ヒョータンツギやスパイダーなどを登場させて、ちょっと読者に息抜きさせる余裕のある作品もある。「火の鳥」も例外ではないが、こと「ヤマト編」に至っては張り詰めた緊迫感なんてまるでなく、気が抜けてばかりで張り合いのない作品になってしまっている。この作品が「COM」でいかなる評価を与えられていたのか、私は知らない。想像するに、問題にならない駄作として受け止められていたと思う。「COM」は、石ノ森章太郎らの若手によって、劇画とは違う味わいをもつ漫画雑誌としての色合いを濃くしていったからである。劇画から弾かれ、今また「COM」からも弾かれた手塚は、完全に孤立した三流作家にまで成り下がっていたのである。手塚の地位を支えていたのは、ただ過去の実績だけだった。そうして、手塚はどこまでも言い訳がましい。以下に手塚の言葉を引用する。
 ―「火の鳥」では、どういうわけか、10年間のぼくのアイデア技術(絵柄など)があまり変わっていない。むしろマンネリ気味だ。ということは、ぼくがこの10年間、ちっとも進歩していないのかもしれない。しかし、また逆に、どんどんテーマが筋立てが変わっていく「火の鳥」だと、まとまりがつかなくなっていたのかもしれない。日本の漫画は、マスコミの人気やら、一部の評論の性急さのせいもあって、ものすごく新陳代謝がはげしい。それだけ作品も腰をすえたものがすくない。海外には、半世紀以上もつづいたコミックがザラにあるのだ。読者の漫画をみる眼がおちついているせいだろうか。また、腰をすえて書いた漫画なら、50年が100年つづいたっておかしくない。一部の人たちがヘキエキしようが、飽きてしまおうが、とにかく、ジックリと長く書きつづけてみる。もちろん長いばかりが能ではないけれど、テーマを、十分書き尽くすまでトコトンつづけて行きたい。それがぼくの意地なのです。
 「火の鳥」のまとまりのなさは手塚自身気にしていて、これは後に「太陽編」で少し解決しようとしている。また、読者を少しばかにした言葉もあるが、これは責任転嫁に過ぎない。とにかく、ここで手塚は「長く書きつづける」と宣言している。「一部の人たちがヘキエキしようが、飽きてしまおうが」と言っているところから、批判を受けたのだろう、だから意地でも完結させようと描き続けたのだ。「意地」なのだ、手塚は「ヤマト編」の居直りを反省し(たと思う)、初心に返って、貪欲なまでの漫画への姿勢を、はやくも次の「宇宙編」で爆発させる。


四 「宇宙編」の小細工
 「宇宙編」には、実験的手法・推理劇仕立ての展開・火の鳥の役割の変化と見所が多い。それについて述べる前に、ちょっと補足しておく。この頃の手塚はさかんに劇画と漫画の融合を試している時期で、「宇宙編」連載の前年まで「少年サンデー」で連載していた「どろろ」に、その試みがみえる。時代劇で言われる血の出ない殺陣、手塚はこれを今までやっていた。「黎明編」の戦闘場面でもほとんど血が描かれずに人が斬られる。だが、白土三平は平気に血を噴出させた、おまけに首は飛び手はちぎれ足はもげると本物の戦・殺陣を見せ付けてくれた。飛び散る血のリアリティは他を圧倒した。手塚はまず、飛び散る血を「どろろ」で描こうとする。世辞にも上手い血ではないが、とにかく必死になって新しい表現を自分のものにしてしまおうという貪欲さがある。さらに、コマ割にも一層の工夫を見せる。手塚はコマ割に以前(それこそデビュー前)からこだわる作家だったから、当然だし本人も意欲的だったろう、そこには「COM」で手塚を超える評価を得た石ノ森の影響も大きい。余談だった、さて、「宇宙編」である。
 物語前半を占めるコマ割にまず目が向く。視点の異なる四人の人物の言動を同時並行で構成する力技である。さらに、狭いカプセル内をそのまま狭いコマ割に投影して、登場人物の置かれた状況を「コマ」で説明してしまう卓抜さがある。唸ってしまうほどの上手さである。それだけに「ヤマト編」のポカが目立ってしまうけれども、もう忘れるしかない。コマ割へのこだわりはさらに発展してページ全体にまで及んでいる。空白の効果だ。手抜きではないか、と思えてしまう空白はそれだけで失敗だが、「宇宙編」の空白はときには余韻として、ときには間として、ときにはコマを躍動させる、と効果はさまざまである。コマ割の影響に石ノ森の名を挙げだか、具体的に言うと石ノ森の手法は心理的というか叙情的というか、コマを絵の一部として扱い、漫画の表現の可能性を探っている。一方の手塚は、あくまで実験でありどこまでも機械的であり、遊びにまで行きすぎることもある。「宇宙編」は、コマで遊びたい衝動を抑えて、慎重かつ挑発的で、誰にも真似の出来ない・手塚の承認欲望を満たすだろう自信が滲んでいる。
 火の鳥が猿田に牧村の罪を説明する・全頁ベタの塗られた場面でのコマ割は、コマの枠がベタに同化していることもあって、ひとコマひとコマがまるで浮かんでいるような構成をとっている。空白もここでは、また違った効果があって、火の鳥の言葉が直接猿田の脳裡に映像として浮かび上がっていることを思わせる。こういう演出は、この場面のように過去を語ったり回想する場合に応用される傾向があるけれども、多くは語る人物の脳裡に浮かぶ映像としてのコマである。これは違う、語る人物と浮かぶ映像のありかが違うのだ。しかも背景が真っ黒であることの不自由さ、ベタや濃いスクリーントーンを使うと輪郭がぼやけるけど全く気にしない風に自由に描いている。心境の変化でもあったのだろうか、などとつまらぬ憶測に及んでしまうほどだ。
 また、推理劇に仕立てている点も、手塚が娯楽作品としての「火の鳥」を突き詰めていることを想起させる。次作「鳳凰編」の歴史性の強調も、「宇宙編」での実験が成功したことへの心の余裕が生んだ結果ではないか。そのことは次回で詳しく述べるけれども、「宇宙編」で手塚は何かをつかんだに相違ない。「火の鳥」の主題を「生死」と言いふらしすぎたがために、「火の鳥」というどの時代の物語も描けてしまういろいろな可能性を秘めた発想に重い枷を自分ではめてしまった。手塚はそれに気づき、「カムイ伝」の対抗意識・「日本の歴史」の追及とこれまでに捨ててきた意欲を、ここでさらに「生死」という主題も「ヤマト編」よりも突き放して、居直ってさらに居直ったところ現れた「本当に自分が描きたいもの」を「宇宙編」で試みたのではないだろうか。さらに火の鳥の役割も変化した。前の三編では歴史に直接関わる振る舞いをしていたところを、ここではひとりの人物に罪を与える行動をするのである。優雅に人間を高みから見下ろしていた火の鳥(これは素晴らしい作品なのだぞという手塚の傲慢さのあらわれかもしれない)が地面に下りてきて人間と対等に語ろうとしているのだ。
 それだけに、「宇宙編」は曖昧な作品となっている。漫画としての評価はこれまで述べたように、発展途上であるにもかかわらず表現上の技術・工夫は目を見張るものがあるし、意欲もわかる。だが、「生死」という問題まで捨ててしまっては、主題なき作品になってしまう。ちょっと待て、「生死」の問題をきっちり語っているぞ、という意見があるだろう。だが、この作品は火の鳥と牧村の因果な物語である、火の鳥の復讐劇なのだ。火の鳥が罰に不死を与える点は「生死」が絡んでいるように見えるが、牧村の償いは流刑星で永久に生き続けることである。「流刑星」なのである。単に不死の体を与えるだけなら、本人は幾度も青年になれるわけで、結構楽しいのではないか、なんて思ってしまう。だがらこそ火の鳥は牧村を流刑星に連れていく必要があった。しかも、そのおかげで罪のない二人の宇宙飛行士が死んでいるし、牧村に恋するナナに至っては流刑星で植物になってしまう。牧村ひとりを罰するために猿田も含めて四人が迷惑しているのである。
 まとめれば、手塚は小細工に走りすぎた、といえるだろう。肝心のストーリーも推理に重きを置いたために他がいい加減で欠点だらけになってしまった。火の鳥を地に下ろしたのも、火の鳥の象徴の意味をわからなくさせている。「未来編」で地球の一部と語った火の鳥が、「宇宙編」では宇宙生命のエネルギー体と猿田によって解説されているからだ。そして火の鳥の利己的な行動に疑問が残る。


五 「鳳凰編」の真意
 「火の鳥」全編を象徴するような作品となるのが「鳳凰編」である。手塚が訴えてきた「生死」「輪廻転生」「永劫回帰」といった言葉が、この作品には詰まっている。しかも私が瞠目するのは、「歴史」まで無理なくおさめている点である。奈良時代・大仏建立を背景にした二人の仏師の物語、と作品の輪郭を歴史で簡単に説明できてしまう。「宇宙編」で主題を失って、新たに再出発した感があり構成・物語性が充実している。「火の鳥」の初心つまり歴史への回帰を果たし、これまで続けてきた表現上の実験が実を結び始める「鳳凰編」の意味を探っていきたい。その指標は三つある、第一に歴史の否定、第二に手塚の仏教観、第三に表現のさらなる飛躍である。
 「鳳凰編」には「ヤマト編」の倣岸さが消えている。「書かれなかった歴史」という点で両編は同じだが、「歴史の認識度」では格段の差がある。というのも、「ヤマト編」で作られる王墓・石舞台古墳は飛鳥時代の豪族・蘇我馬子の墓だという説があるのだ。手塚がこれを知らぬわけがない、知っていながら「これはどこかの王の墓」と言って物語を始めるのは、読者をなめている。私は冒頭のこの古墳の絵を見たとき、これは飛鳥時代の物語だろうか、と思った。初見したのは中学生の頃だったが蘇我馬子の墓説があるのを知っていたので、なんともいやな気分のままに読み進めたのを覚えている。「鳳凰編」は、そんな大見得を切ることなく、二人の仏師の成長を交互に描きながら、茜丸と我王の性格を色づける出来事を読者に明瞭に示している。この辺の対置はとにかく上手い、二人の初対面はほんの一瞬(旅の者と強盗という立場)だが、これが後々大きな事件として引っ張り出される件は、物語の隅々にいくつもの伏線を張ったことを思わせ、再読に堪え得、作品としての質がさらに向上している。登場人物の行動にも説得力があって無駄がない。青年時代の二人に起こる幾多の事件を簡潔に、わすか60頁ほどでまとめてしまう力量には感嘆する。具体的に見ていく。
 まず茜丸である。青年仏師である彼の試練は我王に利き腕たる右腕の筋肉を斬られることから始まる。右腕を失ったに等しい彼は、絶望しながら我王を恨まない点で強靭であるものの、左腕で修行するもすぐに挫折してその都度和尚に諭される点が弱い。次に我王である。産後間もなく怪我で片腕を失いながら力強く生きる姿という点で強いが、身勝手で疑り深く諫言に乗りやすい点が弱い。速魚という存在が亡くなって後に大きな存在となるのも、人は死んでそれで終わりではない、と「輪廻転生」を意識した作りとなっている。両者の点が終盤どう変わっているか、これがわかったときの驚き、序盤の60頁に物語の方向がすべて描かれていることに気づかされるだろう。その後二人は偶然再会する、茜丸は鳳凰を求める旅の途中で我王は僧・良弁に従った旅の途中で。ここでも両者の心中の違いはあまり変わらない、我王は良弁の力によって仏教的な世界に没入するが、まだ以前の粗暴さを残している。一方の茜丸の清々しさは好青年の印象を残す。そして二人の人生が根底で似ていることに誰もが気づく。茜丸がブチに出会って新たな仏師として成長し、我王が怒りのままに彫り付けた木像をきっかけに彫刻に目覚めて成長する。そして中盤からいよいよ教科書的な歴史とその裏にある歴史が二人のさらなる成長と出世を通して描かれ、物語は重層的となる。
 「大仏建立」を授業でどう教えられたか。その内容は極めて表面的で想像力のない、数式によって導き出されたような素っ気なさである。奈良時代は目立った内乱がないだけに、仏教的国家支配が推進されただけと解釈されがちだがちょっと調べれば大きな誤謬であることがわかる。「鳳凰編」でも歴史上の人物を登場させ(作品の都合上史実と異なる設定はあるものの、これは想像力のない作家が書いた歴史小説でなく、想像力に溢れた作家の書いた漫画だから当然の許容範囲である)、権力闘争に二人を巻き込むほどの構成上の妙を見せつけてくれて面白い。実際、奈良時代は腹黒い貴族たちの民衆を省みない政権争いの絶えなかった時代である。我王は濡れ衣を着せられ苦しんだ結果悟りを開くが、当時の貴族たちが似たような目にあったところでただうらみつらみのなかで衰弱していくだけだ。たとえ助かったところで考えることは復讐か阿諛だ、一顧の自己分析もない利己主義者だ。青年茜丸の清々しさとは程遠い図々しさに満ちた生き方しかしていないのだ。「大仏」は権力の象徴であると同時に、貴族の欲求不満をしばらく満たす、夏に飲むの一杯の水のような一瞬の華やかさに過ぎない。その後も続く権力闘争に「大仏」の霊験なんて通じやしない。政治と結びついた宗教のなんという浅ましさか。この思いは「太陽編」で「壬申の乱は宗教戦争だった」とい大胆な仮説に通じるものであろう。
 手塚の仏教への不信感が見えるのは何故だろうか。手塚の言動はしばしば矛盾することがあって、たとえば「鉄腕アトム」を金のために書いただけの作品だ、といいながら今日まで代表作として読み継がれている理由は手塚の暗い心を表面化したような「人間対ロボット」という破壊の繰り返しに、読者が「差別」の問題を読み取るからに他ならない。「火の鳥」も「生死」を強調するあまりまとまりを失って、結果「鳳凰編」に浮かび上がったひとつが「仏教への不信」である。「ブッタ」は手塚自身のそんな心に決着をつけるために書き始めたのではないかと邪推してしまう。この疑問は宿題として「太陽編」で考えたい。
 手塚の仏教観で繰り返し語られる「輪廻転生」がこの作品で強く説明される。いわゆる生まれ変わりというものだが、これを初めて読んだ中学生の私はいたく感化されて「ブッダ」とともにほとんど聖書に近い扱いをしたけれど、私以外にもなんらかの啓示めいたものを感じた人は多いと思う。それだけ強烈な印象を焼き付ける輪廻思想に手塚がこだわった訳はなんだろうか。我王の師・良弁はかつて火の鳥が語ったところの命に長いも短いもない、という思想に因果応報という言葉を補足する。重箱の隅を突つくことだけれども、良弁の補足は前世の因果によって虫けらになるか人間になるか、と生まれ変わったものにはっきりと位を設けて差別していて、たとえば前世で立派な行いをしたとして人間に生まれ変わったとしたら、それは人間を高位に置く態度であって、たちまち火の鳥の言葉と矛盾する。ここは重要である。というのも、手塚作品から「人道主義」つまるところのヒューマニズムを読み取る人がいるからだ。本当か? 私は人道主義を人間中心主義・宗教ではキリスト教のような考えだと捉えているので、とてもとても仏教とは相容れないのである。だからこそ、劇中で手塚は虚無的な思想を我王に悟らせている、「宇宙のなかに人生などいっさい無だ。ちっぽけなごみなのだ」という反人道主義に手塚の正義というものに対する拒絶反応がうかがわれる。だから「ブッダ」のなかでシッタルダは最後まで悩みつづけたのではないか(深読み過剰でしたね)。
 もう一点言いたい事がある。それは輪廻転生を大前提としたこの作品にとって、輪廻について語ることは諸刃の剣だということである。前世やら生まれ変わりは、ときに信じるか信じないかという低次元な話題で片付けられるが、そこには輪廻への根源的な疑問が欠けている。生まれ変わりはいつからはじまったのか、これは宇宙はいつからはじまったのかという疑問と同一の性質でありありながら、なかなか誰も触れようとしない前提である。手塚は盲信していたようだが、私は前世に懐疑的である。皆さんも考えていただきたい、この大前提があってこその「火の鳥」である。もしこれが崩れたら、作品自体が荒唐無稽な滑稽譚にもなりゃしない。もっとも考えたところで、答えは見つからないだろう、私も見当がつかない。
 三つ目の表現については、作品を読めば明らかだ。これまでのまるで舞台装置のような味気ない背景が、劇画を溶けこませて自然そのままの背景になっている点。また民話的な描写もあって味わいがある。コマ割に至っては、ときに細かくときに大ゴマを用い、変化に富んでいて、わりと暗い内容の作品を引っ張って読ませようとしている。だが、なにより注目したいのが物語の展開に抜群の上手さがある点だ。二人の物語はあまり交錯しないものの、まったく違和感なく互いの人生を見ていくことができる。そうしてやがてはっきりする両者のへだたりもいちいち説明することなく、権力者に成り下がった茜丸と仙人みたくなった我王の対比に解説はいらない。だから茜丸の死も、そこだけ取り出すと唐突だけど、全体の流れの中では彼の死が当然のように思わせる説得力に溢れている。最後の我王の独り言はいただけないが(今までの流れから理解できることですよ、手塚先生。野暮なことしないでください)。そして劇中の火の鳥の位置も「宇宙編」よりさらに踏み込んで個人に接近する。この効果は、読者が茜丸と我王に感情移入してはっきりと表われる。すなわち、「生死」や「人生」について考えさせられる、ということだ。ぼくにばかり話させないで君らも考えろよ、と手塚は言いたかったのだろうか。


六 「復活編」が拒否したもの
 前回触れた「正義に対する拒絶反応」は、「火の鳥」という作品そのものに対しても向けられた。冒頭、いきなり輪廻を否定するような死者の復活劇がそれだ。「鳳凰編」で強調した輪廻思想をあっさり覆している。人間が生まれ変わりを支配してしまった未来の物語を主人公・レオナのロボットのような人間という特異な視点から描いた「復活編」は、「未来編」とは比べ物にならないほどの完成度を見せてくれた。また「鳳凰編」で象徴的に描かれた我王の悟りは、今もって「火の鳥」全編の象徴・「火の鳥」の主題がそこに集約されているような印象を与える紹介のされ方が多い。そんな誤った見方では「復活編」を理解できない。「復活編」で拒否した正義とは何かを考えていく。
 命あるものの姿がなにかの結晶体にしか見えないというレオナの苦悩は私たちに想像できない。だが、その視点はまさにロボットの視点以外にないのである。ロボット。やはり「鉄腕アトム」がどうしても思い出されてしまう。アトムは当然ロボットだが、その心に人間の善悪を見分ける能力があるのをご存知だろうか。これはもう、ロボットの中に人間の心が内在している状況と変わらず、アトムはロボットと人間の対立の狭間で葛藤し、単純に善と悪で計りきれない事態に遭遇して混乱するのである。対立する二者の物語は手塚の真骨頂だ。(手塚の得意形となれば物語の面白さは保証されたようなもの。しかも安心して読める物語に手塚は満足せず、未来のそのまた未来の「ロビタ集団自殺事件」をとりあげて読者の興味を惹きつける。さらにレオナに、死ぬ直前の記憶・殺人事件の謎を与え、自分は何故殺されたのかという娯楽要素も欠かさない。充分過ぎるほどの内容に満ちている作品だ。)こうした物語の主人公は大概が両者の中間的な存在で、常に苦悩を強いられる。レオナは、まさにそうなった。死んだ彼が進歩した医療によって復活した結果が人間とロボットの中間的存在では、苦悩して当然なのである。
 苦悩するのはレオナだけではない。ロボットであり、レオナと恋に至るチヒロもそうだ。周囲に理解されない恋愛ははじめから悲劇が準備されているようなもので、これも苦悩して当然である。ロボットに恋愛感情が宿ってしまう展開はマンガらしいといえばマンガらしいが、侮ってはならない。この二人の恋愛劇は後に両者の融合、そしてロビタの誕生と発展するのだが、これは意味深だと思う。手元に「火の鳥」全編がある方は確認していただきたい。まず、ロビタ集団自殺の次の展開であるレオナとチヒロの密会場面。ここのレオナのセリフ「ぼくとふたりだけの世界・・・。誰にも干渉されない愛と自由の生活を送ろう。ぼくは人間を捨てる。きみの仲間になる」。どこかで聞いたことがある。次にレオナとチヒロが融合する場面、「出口」に向かっていく二人の後姿だ。ふたつの場面は後の「太陽編」ラストシーンに酷似している。何故だろうか。思うに、「火の鳥」の構想は手塚が当初描いていたものとははるかに違うものになっていたのではないか。それがどこからなのか、といわれれば「復活編」と言える。手塚は始めからロビタの物語を考えていたのだろうか、「復活編」はレオナとチヒロの悲恋物語として十分の出来である。仮にロビタの挿話を無視して読み進めてみれば、それがはっきりするだろう。別々の話にしても差し支えないし、「太陽編」の展開が「復活編」を想起させてしまう限り両編とも失敗ではないか。とことん苦悩するレオナの姿は、それだけで「生死」について深く考えさせられるし、医療技術の進歩にも不信感があって、手塚の生命観が読み取れる。果てはロボットになりたいとまで決意するレオナの寂しさに読者は感動するだろう、それなのにロビタである。読者の興味・今後の展開を楽しみにさせるためだけに挿入されたロビタの話は無駄ではないか。手塚は焦ったのか、あるいは自分の構想に酔っていたのか。あまりに性急過ぎる展開である。手塚人類史ともいえる壮大な歴史物語を構想しては見たものの、歴史をどうつないでいくのか、ということにばかり気を取られた結果としか思えない。「黎明編」同様に物語を深める材料は充分そろっている、しかし、過剰な調味料によって材料そのものの味が失われてしまった。
 物語の後半はつまらない。チヒロを連れて逃亡するレオナの行動があまりに唐突である。「復活編」の本来あるべき展開は、ロボットになりたいと願うあまりレオナは自殺し、ニールセン博士によってチヒロと融合するというもので十分である。ラストシーンは当然ふたりの融合場面だ。そして続く物語が「ロビタ編」にしてほしかった。だが、そうとなると「太陽編」のラストシーンが問題になるけど、これは「太陽編」二つ目の宿題にしておこう。
 さて、苦悩するレオナは何を拒否しているだろうか。もう、おわかりだろう、・・・「人間」である。同時期に連載されていたのが「きりひと讃歌」であることを考えれば、その意図がわかると思う。人間の生み出した高度な医療技術をもってしても、人間の死はいかんとも逃れられない、たとえ蘇ったところで、やはり違う人間に生まれ変わっているという衝撃。不死を求めるを罪とする火の鳥の態度は手塚の態度に他ならないが、どうしても「何故か」という疑問が消えなかった。しかし「復活編」でそれは半ば解消された、「人間」というものへの不信感である。戦争体験、そして連載中に起こる様々な事件、これらがひっくるめられ、「生死」を越えて「人間」に対する抜きがたい嫌悪が「ぼくはロボットになりたい」というレオナの叫びに表われる。さらに「ロビタ編」で提示されたのが、「人間」の定義である。・・・とにかく読者への問題を積めこみすぎで、読み解くには相当の根気がいることを痛切に感じた。
 ここに至ってようやく人類史という手塚の創作した「歴史」が「火の鳥」で活かされはじめるものの、手塚の想像を超えたそれは―「生死」「輪廻」「人間」そして「歴史」―手のつけられないほどに肥大していたことにも気づく。手塚は全編書ききる自信があったのだろうか。「ロビタ編」で触れられるのは「未来編」に続く歴史だが、その間に人類は汚染された地上を捨てて地下に都市を築き生活しているのだから、当然そうなるに至る物語は書きがいがあったはずだと思う。娯楽と自身の歴史の融合をどうにか成し遂げながら、今度は間を埋めるための惰性が続くのだった。1971年、「復活編」の連載中に手塚は虫プロ社長を辞任している。


記事タイトル:

手塚治虫「火の鳥」 火の鳥総論 前編

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竹下景子(声優)

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