アニメキャラの魅力まとめ

検索
キャラペディア公式アイテム

   

0

pt

手塚治虫「火の鳥」 火の鳥総論 後編

一言でこの作品を評価するならば、まとまりのない曖昧な作品と言える。俗に人道主義や輪廻転生といった表面に目が奪われ気味で、読者自身、作品の全体像を掴み損ねていて、「傑作」「名作」という言葉ばかりが先行し

手塚治虫「火の鳥」 火の鳥総論:後編

七 「羽衣編」のつまずき
 「火の鳥」全編のなかで、この作品について語るのは難しい。もともとが「望郷編」のプロローグとして雑誌に発表されながら、内容の問題からセリフが書きかえられていて、まったく孤絶した作品になってしまったのである。だが、手塚がそれで納得するとは思われない。当然だ、まとまりのない作品が一層まとまりがなくなってしまっては作品が破綻してしまう。おそらく「羽衣編」と連関する作品を構想していたと思う。それがどのような物語なのかをここで推測しながら、「火の鳥」で描いて欲しかった時代を述べていく。
 「羽衣編」につながる物語は、本来「望郷編」だった。核被爆者の悲劇を書こうとしながらも、現実にいる広島・長崎の被爆者に配慮してセリフを改稿し、今の形になっている。劇中のおときの言葉「かあさんは千五百年も先の世に住んでいたのよ」は「望郷編」の時代と一致し、これは「復活編」のレオナと「宇宙編」の時代の半ばあたりに相当する。しかしそうなると「その頃、みな殺し戦争」があったというおときの言葉がたちまち宙に浮く。考えられるのは「望郷編」のラストで描かれるエデン17の崩壊だろうが、となると、おときは人間とムーピーの子孫ということになるものの、おときの姿からそれは否定せざるを得ない。素直に考えれば、おときは地球の未来からやって来たとなる。だが、手塚人類史でそのような戦争が描かれるのは「未来編」と「太陽編」だけだ。しかし「未来編」は「羽衣編」の時代・10世紀中ごろから二千五百年後であり、無理がある。「太陽編」の未来の宗教戦争も21世紀の前半となれば、おときのいう千五百年後のみな殺し戦争は存在しない。手塚はどう処理しようとしただろうか。簡単なのは千五百年後というセリフを替えてしまうことだ。作品発表後も原稿の書き換えをしてしまう手塚なら当然でき得るはずである。しかし、しなかった。だからこそ、未来のみな殺し戦争を描こうと目論んでいたのではないか。
 未来の戦争だからといって地球規模のものにする必然性はないわけで、どこかの地域、といってもおときは容貌・名前から日本人としか考えられないから、舞台は日本だろうか。「復活編」の中の日本には、とてもそんな兆しは読み取れない。「宇宙編」では全くわからない。となると、どうしても「千五百年後」に無理が生じるので、これを無視して考えていく。
 もっとも妥当なのは「未来編」の百年ほど前だろう。荒廃する地球上のどこかでそんな戦争があっても不思議ではないし、その舞台が日本だとしても違和感はない。手塚はいろいろな未来の日本を描いているが、その中からなにか探せば、「低俗天使」という短編が思い浮かぶ。ベトナム戦争の時代を背景にしていて、「低俗天使」の主人公ジュジュは物語のはじめにベトナム難民の子と思われる。会話に時折「北か南か」と言うことから、ジュジュを保護した青年記者がそう思いこんでも無理はない。しかし、ラストで明かされる未来の日本像は北日本と南日本にわかれて百年以上も行われる内戦なのだ。ジュジュは未来からやって来た、という告白と危惧すべき日本の未来で物語は締めくくられる。その内戦が、なんと西暦3200年代に起こっているのだ。「未来編」の荒廃する地球のひとつの例として描くに丁度よい時代ではないか。これはもったいない、使わない手はない。「低俗天使」を「火の鳥 天使編」としてもいいくらい、とは言い過ぎだが、手塚の構想にそれがあっても不思議でない。おときの住んでいた未来は33世紀の日本だ。
 また、なにも未来にこだわることもないだろう。戦国時代でもいいし、19世紀から20世紀の近代戦争でもいい。材料はそちこちに転がっている。ひとつ想像を飛躍させると、「太陽編」の続編として準備されていたらしい「大地編」と連関してもいい、「大地編」は日中戦争が舞台だったというから。
 しかし、「羽衣編」における火の鳥の行動はあまりに無責任である。おときは火の鳥によって過去にやって来たことを明かしている。何ゆえ歴史が歪んでしまう危険性を犯してまで彼女を過去に行かせたのか、全くわからない。これは、元が時空間移動装置で過去に逃げてきた、という設定を変更したために生じた無理である。無理を承知で改編しなかったのは、やはり「羽衣編」とつながる「天使編」(勝手に決めつけてちゃって、手塚先生、ごめんなさい)の構想があったからだとしか思えない。そして「天使編」には、当然、松の根元から「羽衣」を掘り起こす場面が挿入されたに違いない。


八 「望郷編」の汚点とは
 とってつけた展開、構想力の減退、そして登場人物の魅力のなさ。「望郷編」は「火の鳥」の汚点である。何故なのか。これからその理由を解きほぐしていく。
 「羽衣編」をプロローグとして連載された元々の「望郷編」は核被爆者の悲劇・障害者の苦悩と、これまで哲学的要素の強かった「火の鳥」に、現実的な問題を語らせようとした作品だった。コムは本来主人公であり、「羽衣編」のおときの子として登場するはずだった。そうした構想が、なにも原爆被爆者への配慮だけが理由で変更されたわけではない。これまで「火の鳥」という手塚のわがままな作品を発表し得た雑誌「COM」の休刊である。1972年、「望郷編」は連載2回目で中断し、手塚は「火の鳥」発表の場を失ったのである。だが連載を続ける術はあった、手塚人気は衰えども、手塚治虫という看板を欲しがる雑誌はいくらでもあったのだ。ところが「希望の友」から連載再開の依頼を受けながらも、手塚は「ブッダ」の連載をはじめるのである。その背景には「COM」復刊への情熱があったろう、1973年、「COM」は一号のみの復刊を成すが、これっきり「COM」は廃刊する。さらに虫プロ倒産というおまけつきである。手塚は巨額の負債を背負うことになり、架空の世界でのんきに「生死」を語っていた「火の鳥」にも転機をもたらすことになった。自己を見詰めはじめるのである。
 この頃の手塚は二流作家に過ぎず、ちばてつやの絶大な人気には遠く及ばなかった。人生でも苦悩を強いられる手塚にとって、「火の鳥」なんて書く気があっただろうか。それよりなにより手塚にとって重要だったのは「人間」だったに違いない。虫プロ経営から深刻になっていった人間不信が、借金返済のためにひたすら書きまくるしかない手塚を一層暗い深淵に引きずり込んだことだろう。だが、それでは作品の質にも影響しかねない、同時に「もう終わりかな」といった諦念もあったと思う。そうしたなかで手塚は一本の短編を発表する。「紙の砦」である。手塚にとって己の過去を振り返る作業はつまらなかったに違いない。次から次へと湧いてくるアイデアをよそに、すでに見知った世界を考えるのであるから、実に退屈である。だが、手塚は描いた。その心境はたんなる懐古だろうか、ぼくはこれだけ苦しい時代にも必死に漫画を描いていたのだ、と自慢しているのだろうか。否。手塚の承認欲望である。そこには諦念による開き直りもあったろうが、手塚にとっての自伝は、かつてこんな漫画家がいたのだ、忘れないでくれ、という心の叫びである。アニメ製作の場を失って漫画でしか稼げない己の弱さは手塚を卑小にした、だから「ブラック・ジャック」である。どうせなら誰も描けない作品を最後に描こうか、そんな気楽さから生まれた稀代の傑作に手塚は夢中になって行く。すなわち、「火の鳥」執筆の意欲が失われるのである。
 1976年「マンガ少年」が創刊され、「望郷編」はその巻頭を飾る。しかし、それは「火の鳥」の続編を待ち望んでいた人々にとって「ナニコレ」と呆れさせてしまう物語となっていた。この時点で改訂版「羽衣編」は発表されていない。読者が期待していたのは当然「羽衣編」を受けた未完だった「望郷編」である。だが、再開されたそれは全く孤立した物語となっていたのだった。「火の鳥」の失速はもう止まらなかった。翌年の新年号から連載された竹宮恵子「地球(テラ)へ・・・」が大きな支持を集める。どちらも簡単に言えば故郷の地球に向かう物語である。だが、その質は歴然としていた。手塚は「COM」で石ノ森にやられ、「マンガ少年」で竹宮にやられ、完全に意欲を失った果てに「望郷編」をいい加減な形で終了させてしまったのだ。このいい加減さは次の「乱世編」にも影響し、手塚人気は復活したものの、「火の鳥」自体の壮大さは失われてしまった。何故手塚は「望郷編」で自分を見詰めようとしなかったのか。「ブッダ」だけでことたりたなら、「火の鳥」はいっそ完結させる努力に向かうべきではなかったか、「意地」を捨てたのだろうか。手塚は時代を埋めていく作品を描くだけとなってしまい、そこには単なる漫画しかない。一過性の「ヤマト編」のような粗雑さである。その象徴が牧村の登場である。いきあたりばったりの展開にどうにか「火の鳥」としての体裁をとどめるために「宇宙編」以前の牧村を「望郷編」のキーマンにした。牧村の役割は適当で、彼でなければならない必然は全くない、むしろ猿田のほうがなんとなく納得してしまうのに。劇中で牧村は火の鳥の存在を知るわけだが、このあたりの描写が「宇宙編」で火の鳥の生き血を飲む場面とまるで関連しない、後で描き直せるはずなのに、それさえしない、ほったらかしである。
 「ブラック・ジャック」「三つ目がとおる」のヒットにかまけて「火の鳥」をないがしろにしたとは思いたくない。仮にそうだとしても、本にまとめられる際に、修正が施されて「望郷編」はどうにか読むにたえ得る作品に仕上がった。最後に「星の王子さま」の一節を引用して余韻を残している、手塚自身反省したのだろうか、この引用は見事である。私が「望郷編」で語るべき長所はここだけである。では、牧村が朗読する「星の王子さま」、「あとはきみが読むといい」という言葉にしたがって、続きを読んでみよう。
   ―「だからね、かまわず、ぼくをひとりでいかせてね」といって、王子さまは腰をおろしました。こわかったからです。
 それからまた、こういいました。
「ねえ・・・ぼくの花・・・ぼく、あの花にしてやらなくちゃならないことがあるんだ。ほんとによわい花なんだよ。ほんとにむじゃきな花なんだよ。身のまもりといったら、四つのちっぽけなトゲしか、もってない花なんだよ・・・」
 ぼくも腰をおろしました。立っていられなくなったからです。
 王子さまはいいました。
「さあ・・・もう、なんにもいうことがない・・・」
王子さまは、まだ、なにか、もじもじしていましたが、やがて立ちあがりました。そして、ひとあし、歩きました。ぼくは動けませんでした。
 王子さまのあしおとのそばには、黄色い光が、キラッと光っただけでした。(中略)そして、一本の木が倒れでもするように、しずかに倒れました。音ひとつ、しませんでした。あたりが、砂だったものですから。―
 「望郷編」の汚点は、主人公・ロミである。当初の物語を書いていたならば、おそらく「星の王子さま」のように、コムがさまざまな星を巡りながら地球に辿りつき、そこで遭難した牧村と出会って「人間」とはなんだろう、というコムの素朴な質問が展開されたことは想像に難くない。手塚版「星の王子さま」になるはずだった童話的な物語がロミを主人公にしたことによって瓦解して、どうにもならなくなってしまった、駄作である。


九 「乱世編」は意味がない
 「乱世編」に火の鳥は登場しない。代わりを果たす天狗・我王も序盤で死ぬ。しかし、我王の思想は虚無的なものから輪廻思想になっていて、「人生は無だ」と絶叫した若き姿の力は全くない、ただの説教好きな爺さんに成り下がっている。内容も再読する気にならないもので、「ヤマト編」よりはましながら、全体に漂う軽薄さはいただけない。単刀直入に言えば、私は「乱世編」について語る気がしない。
 ただ言いたいことがないでもない。「乱世編」でも手塚の正義への拒絶反応が如実に現れている点だ。つまり、一般に悲劇の武将の印象があまりに強い源義経を、身勝手な他人を省みない利己主義者として描いている。これはなかなか出来ないことだと思う。どの本を読んでもどの時代劇を見ても、義経の扱いは悲劇極まりなく、はっきりいって陳腐である。だが、手塚は義経を平気で他人を踏みにじる卑劣な人間として描ききり、最後まで非情で、強がっていながら弱弱しい存在であることを読者に伝えている。
 たとえば、一の谷の合戦で、義経は夜の暗さに民家に火を放って昼間のごとくする場面がある。同様の場面は「平家物語」にもあり、そこで義経は「いつもの大松明(おおたいまつ、つまり民家に火をつけること)はいかに」と言ってるのである。これは夜の戦場では常にこの方法で明かりを得ていた証左で、義経の非情さ・勝つためには手段を選ばない様を浮き彫りにしている。手塚は「平家物語」から義経の卑劣さを強調させ得る記事だけを抜き出して手塚版源平合戦を展開させたといえる。


十 「生命編」が見詰める人間
 「生命編」も「羽衣編」同様に孤絶した作品であるが、そこで語られる主題の重さは「羽衣編」の比ではない。
 クローン人間は人間だろうか。いまでこそ科学者が真剣に考えておかしくない倫理を手塚は20年近く前に訴えていた。クローン人間に対する諸国の見解は否定的だが、いずれ作られてしまうだろうことは、想像できてしまう。1997年2月、イギリスの科学雑誌でクローン羊ドリーの誕生が発表されると、それはクローン人間は可能か・クローン人間をつくっていいのか・クローン人間の人権は・というふうに問題が拡大された。たとえば、子供をなくした親が子供のクローンを作りたいといった場合はどうか、悪人のクローン人間がつくられたら大変だ、と私たちにさえ素朴な疑問が浮かんできて、たちまち国家レベルでの議論にまで発展してしまった。
 「生命編」ではクローン技術の人間への応用が禁止されている。さらにクローン人間といえども人間としての権利が約束されている。「生死」という問題がここでは「人間」の意味に発展し、「復活編」のロビタに言わせた人間の理由を追究しているように思える。ロビタは殺人と自殺が人間であることを証明できる行為だと言った、では「生命編」はどうだろうか。
 手塚は「生命編」「異形編」の両編を、人間が他人の生命をないがしろにしたために、自分に報いがくるということを主題にした物語だ、と語っている。「異形編」は後に述べるとして、「生命編」にその言葉はあてはまるだろうか。主人公・青居は確かに報いを受ける。クローン人間と同じ扱いを受け、人間に狩られるものとして追われ、果ては責任を痛感してクローン工場ともども自爆してしまう。火の鳥の与える罰はここでも絶望的なまでに容赦ない。青居が罪の重さに気づいたところで解放なんてしない、徹底的に死をもって報いることを強いている。(私には、火の鳥が命をもてあそんでいるようにしか見えないけれど、それはさておき。)しかしここに、「生命編」最大の欠点・汚点、およそ手塚らしくない物語上での重大な欠落があることに皆さんはお気づきだろうか。
 それは「殺人ショー」を見ている人々の存在である。彼らの罪が全く問われていないのだ。もともとが高い視聴率を狙った「人間狩り」という番組である。当然、人が殺されるのを見て楽しむ「私たち」がいるのだ、厳然と。これはけして見逃してはならない事実である。もちろん、そこまで言及すれば物語は長大になったことだろうし、また違った展開を読者に突きつけたに相違ない、なにより「人間ども集まれ!」の二番煎じになる危惧もあるけれど、何故手塚はそのことに触れなかったのか。主人公よりも罪深いのは、罪を犯していることにすら気づかない「私たち」ではないか。火の鳥は、それは罪ではない、と言うのだろうか。そんなはずはない。
 より刺激的な映像を求める、狂乱めいた大衆に手塚は憤ろしい思いをしただろう。テレビや新聞の流す情報をただ盲信して追従する自分なき「私たち」の姿、そして大衆が求めるものを、という口実の元に視聴率に左右されるテレビ番組・製作者の姿、手塚の虚無主義は本人の自覚なしにいろいろな作品で描出されるけれど、「火の鳥」という「名作」を運命付けられた作品を描くこと自体が、苦痛だったのではないか、その自分の姿が「私たち」や番組製作者と重なることに対する激しい嫌悪。かつて「鉄腕アトム」を正義の味方という理由で毛嫌いし、「ブッダ」を完璧な人として描かなければならないことに懊悩し、その思いはついに「火の鳥」にまで及んだと思う。以前、意地でも書き上げる、と言った手塚がいた。しかし、今の手塚は「虚無」である、無責任な人間に対する「虚無」である。
 劇中のジュネのあばあちゃんは脳だけ人間の、サイボーグである。それを見た青居(クローン人間)はあっさりと「これは人間じゃないよ」と言う、「生きている機械だ、心も何もなくなっちまっている」。当のクローン人間・青居も人間でないものとして追われている。これはどういうことだろう。一方は心があるけど人間ではないといい、一方は心がないけど人間だという。クローン人間・青居は後に木っ端微塵に殺され、撃った人の「人を撃ったようで気持ち悪い」という言葉に「これは本物の人間ではないから」とある男が言う、人間とはなんだろうか。手塚の真摯な疑問である。
 死の感情が希薄になりながら、死を求める人間があまたひしめく未来を舞台に借りて、手塚が全編中もっとも強烈なメッセージを焼き付けた「生命編」の主題・「人間」の定義。劇中で描かれる「人間狩り」は容赦なく、青居の複製たちは殺されるために存在している。ここに人道主義なんて挟まれる余地はない、徹底的な虚無主義・人間不信の表われだ。現実にクローン人間が作られたとして、「彼ら」は人間として扱われるだろうか、そもそも「人間として扱う」とはなんだろうか、考えれば考えるほどに闇は深まるばかりで一寸の光明も見出せない。クローン動物やクローン植物は人間の役に立ちながらクローン人間は人間の役に立たない、という青居の言葉を受け、手塚はすげなく言う、「人間を増やしてどうする。それこそ公害だぜ」。
 「私たち」にできることはテレビを見ながら、ちょっと待てよ、という懐疑心を抱くことだと思う。短編ゆえに描かれなかったけれど、人の死を楽しむ無名の大衆に火の鳥はどんな罰を用意していたのだろうか。


十一 「異形編」の上手さ
 私は「火の鳥」全編中で「異形編」が一等好きである。自分に殺されるという過酷な罰は「火の鳥」世界ならではだし、きっちりと「太陽編」のプロローグとしての役割もあって、なによりも可平という登場人物の位置が絶妙で、最後の締めくくり方は神業といえる。
 物語の舞台は室町時代中期で、「生命編」同様の短編である。無駄と思われる場面を徹底的に廃して主題そのもののみを直接読者に伝えるために、自分に殺される自分という逃れられない罪と罰をさまざまな角度からあぶりだしている。たとえば「逆行する時間」、これまで、ひたすら未来へ進んでいた時間がここではとても曖昧のままに流れていて、読者は今がどの時代なのか中盤からわからなくなる、それこそ次々と現れる妖怪は古代のものとも未来のものともつかない、異星人かもしれないから場所さえうやむやになる。あまりに不安定な己の立場に主人公・左近介は当然狂わんばかりに惑乱した。たとえば主人公の中性的立場、「復活編」で述べた通りである。つまり左近介は生まれながらに悲劇が用意されていた、女性でありながら、女性であることを許されない家庭環境の峻酷な人生は初恋の青年まであっさりと合戦で失うことになり、武士としての人生を余儀なくされる中で、自分を踏みにじった父に対する憎悪が燃え立つ。そこに親と子の情は一片もなく、ひたすらに憎しみだけがある。レオナは自分の意味に苦悩し、左近介は憎悪に苦悩した。たとえば次々とやってくる傷付いた妖怪を厭わずに治療する姿、罪に対する償いであるが、火の鳥はここでも全く許さずに罰を与えつづける。
 ここでふと疑問が浮かぶ、罰すべきは左近介の父ではないか、と。徹底的なマキャベリズムの果てに単なる利己主義者に成り下がった人間を信用できない人間が、たとえ無残に殺されたとしてもなんとも思わないし、むしろ歓迎する。劇中でその父は鼻が巨大化する鼻癌を患うので、これが罰ではないか、否、手塚の真意はこうだと思う。左近介の父は罰する必要もない愚人である、ということ。身内を平気で裏切り他人を陥れ残虐非道、罰したところで悔い改めないだろう。「宇宙編」から個人のために動き始めた火の鳥の動機は、救いようのない奴はほっとく、といった結構いい加減なものかもしれない。「鳳凰編」でも権力争いに民衆をほったらかしの貴族連中は無視して、罰すれば改心しそうな茜丸と我王に接近している。「復活編」でも命を弄んだといえるニールセン博士はのんきに生きているし世界初の蘇生手術に成功した医学者として名誉も得たことだろう。なんだかすっきりしないけれども、では「異形編」はどうかとみてみると、これは説明がつく。手塚が意図したのかはたまた偶然か、このあたりは「火の鳥」という作品に共通した「適当さ」としかいいようがないが、こじ付けではなくて「異形編」は秀逸である。
 すなわち、左近介は父を殺すべきであった、ということ。父を殺したいとまで思いつめながら、父の隙のなさに殺害を諦め、時のままに父が死ぬのを願いつづける卑怯者なのである。鼻癌にかかって父の死は現実となるも、それを治せる者・八百比丘尼が現れると焦慮して惑い、父の殺害は恐怖しながら八百比丘尼を殺すになんのためらいもしない。左近介の姿勢は己の運命を切りひらくことの出来ない弱者、いや弱者ならまだかわいいほうだ、むしろ父同様の利己主義の塊で無難に生きようとしかしない父よりも気迫に劣る人間になっていたのだ。たしかに左近介の青春は不幸といえよう。しかし、そこから逃れようともがきもしなければ戦おうともしない、所詮はいいとこのお嬢さん根性が染み付いた力のない人間なのだ。そうして左近介は未来の自分たる八百比丘尼を斬った・・・。
 では、火の鳥が与えた罰は未来永劫続くのだろうか、左近介は永久に自分に殺される運命から逃れられないのだろうか。それはないだろう、何故なら、左近介は罪を償うために必死な姿を見せているからだ。最初に斬られる八百比丘尼、彼女はほとんど反省のない人間である。自分を斬りにきたかつての自分に「覚悟はできている」といいながら、斬られる間際になって、わたしを斬れば、おまえも私と同じ苦しみを味わうのだ、ざまあみろ、という心情が読み取れるセリフを吐くのである。彼女の負け惜しみのような哄笑からは、訪れる妖怪たちを治しながらも慈悲心のない、単に妖怪に慣れただけの八百比丘尼であったと想像できる。しかし、物語の主人公たる左近介は治すだけでなく、妖怪を介抱しいたわっている。そして斬られる間際のセリフにはかつての自分を憐憫する様子がうかがえ、いずれこの運命から逃れるであろう左近介の未来がわずかな希望を残している。


十二 「太陽編」の焦り
 はじめに、「ブッダ」を描いた手塚が何故仏教を敵とした「太陽編」を描いたか、という疑問があるけれども、これは二つの宿題を考えながらみていこう。
 一つ目の宿題は「鳳凰編」で垣間見せた仏教への不信感である。そもそも手塚は正義なるものに嫌悪する人間だが、「鳳凰編」を描く時点で手塚に「仏教=正義」という式は頭になかった。そうして「ブッダ」を描くことによってそれがはっきり自覚できるものとして表出した。この自家撞着に手塚はおおいに苦しめられたことだろう。仏教を否定すれば、輪廻思想まで否定してしまうわけで、手塚はどうにかして活路を求めたに違いない。「ブッダ」で語られる宇宙は、単なる生まれ変わり思想から発展して、生きるものすべては根底でつながっているという精神宇宙(つまり内面なのね。「火の鳥」はむしろ宇宙精神・つまり外の世界)の世界に逃れようとし、今生きている体は「殻」だといい、死体は「抜け殻」となる。それでもシッタルダは最後の最後まで悩みつづけるわけで、手塚もわけがわからなかったに違いない。これは死んでも魂は生きつづけるという考えだけど、現実世界の手塚がそんなのんきな考えに満足して気楽に生きていたとはおもえない。「太陽編」連載当時の注目作品はなんといっても大友克洋「AKIRA」である。「火の鳥」なんて目じゃない、「AKIRA」は哲学も現代思想も宇宙論も人生論も語らずに火の鳥のような説教たれることなく人間だけを描いてなにもかもぶち壊し、そこから見える人間の本質を徹底的に、わざわざ罰を与えて考えさせるなんて悠長なこと言わずに、考えるのは読者ひとりひとりが勝手にやっていろという突き放した態度で、ラストまで疾走した大作である。火の鳥がAKIRA世界に現れたところで「なんだ、あのヤロー、偉そうに高みの見物かよ、殺しちまえ」といわれて撃たれただろうし、生き血を欲しがる奴なんてミヤコとか根津とかそのへんだろう、とにかく問題外なのである。一方の「火の鳥」は「マンガ少年」休刊後、ふたたび発表の場を失って5年近く、どうにか角川に拾われて「野生時代」に鋭意「太陽編」を連載開始するけれど、果たして話題になったのか、私は知らないのでなんとも言えないが、1980年代の漫画界は大友の時代といえる。(そういえば、「太陽編」で主人公と対立してやられちまうのも大友だけど、・・・偶然だね)。手塚がそれに反応しないはずがない、現に大友を誉めたりけなしたりの発言を残していて、動揺振りがうかがえる。そうした諸々の感情が「太陽編」執筆を混迷させたといえる。
 と言うのも、太陽編は連載時と単行本初版そして再版と何度も描きなおされているのだ。完璧主義者といわれる手塚の一端を示す範例だが、私はあえて、異議を唱えたい。これまで述べてきたように「火の鳥」は全体的にまとまりのとれていない、特に「火の鳥」にする必然性があったのか疑えるものから全く作品としての価値のないものまで、てんでバラバラな作品があるだけで、それらはいくらでも描き直し出来たはずなのに手をつけず「太陽編」にまで至っている。統一感のなさに手塚自身気付きながら少しでも修正しようとする意志が見られず、これが完璧主義といえるだろうか。それが、殊に「太陽編」での大幅な描きなおしは、なにやら手塚の焦りを感じずにいられない。何を焦っていたのか、先に挙げた「AKIRA」への対抗心か、あるいは・・・自分の死か・・・。(連載中に父を亡くし、連載後まもなく体の不調を訴え入院している手塚が当時死を考えなかったとは思えない。もっとも、天才はどこか抜けたところがあるもので、さかんに生死を主題に掲げながら、自分の死にはてんで無頓着だったとも考えられる。手塚の自伝を含めた戦争物や自身の医学生時代の懐古を見ても手塚の火の鳥のような、どこか冷めた死生観、人事のような、まるで自分は死なないと信じてでもいるような凡人にとっての死生観と次元の違う血のない透徹な視線を私は感じる)。とにかく焦りはあった。連載時ではお茶の水博士が猿田一族の末裔として登場し、「火の鳥 アトム編」を予感させる展開だったというが、はっきりいってひどい。もう錯乱状態である。「壬申の乱」を取り上げたのは角川の意向だったともいわれるものの、「火の鳥」を復活させるために手塚は嫌悪する代表作まで登場させようと目論んでいたのだろうか。ようやく「ブッダ」の連載を終え(手塚自身、「ブッダ」の終わりの方はとにかく早く物語を終えたかった、なんでこんなのを描き始めたのか、と語っている)、正義に縛られることなくのびのびと書けるはずだったにもかかわらず、「ブラック・ジャック」以後、少年漫画系でのヒット作を生み出せない焦りだろうか、人気を得るためだけに「アトム編」を匂わせる展開を描いたのか、まるで「望郷編」連載時と同様の愚行をやってしまいかねなかった手塚だが、仏教を侵略者として描ける爽快感・「ブッダ」から解放された気持ちの余裕からか、焦る一方にあるそれらのゆとりが、単行本出版に際しての改稿にちからを与えたのだろう。また、物語の展開そのものの上手さがあったからこそ、「望郷編」のごとき苦し紛れの改稿ではなく、しっかりと構成された「神々の戦い」を再構築できたのだと思う。
 二つ目の宿題は「太陽編」のラストシーンである。この場面だけでなく、「復活編」レオナのロボットになりたいという想いは、「太陽編」犬上あるいはスグルの狗族になりたい想いと相似する。「太陽編」の展開は「復活編」をより一層の高みへ昇華させたような素晴らしさだが、手塚は相似に気付かなかったのだろうか。もっとも、手塚漫画は似たような設定の似たような展開がいくつかありながら個々の作品として成立しているので、いちいち口を挟むことではないかもしれないが、「火の鳥」はさまざまな物語を書くと宣言している以上、似た物語を書いては手抜きだ。だからこそ、何か屁理屈でもこねくり回してみたくなってしまう、つまり、「太陽編」の続きを勝手に考えた。以下は私の空想である。(まず「太陽編」下巻のラストシーンのセリフ、初版は「だれにも圧迫されないほんとに自由な世界へ!」となっている。再版は「・・・狗族の世界へ!」に変更されている。これは簡単に「自由な世界」=「狗族の世界」と考えていいだろう。では、この続きに相応しい舞台を考えるとたちまち悩む。再版によると、スグルとヨドミが再会する場所は「狗族のふるさと」らしい。となると、遥かな過去か、あるいは私たちの想像外の世界か、そもそも火の鳥は二人をどこへ導こうとするのかも見当つかない。過去ならば、当然仏教の侵略される以前の日本になるが、となるといずれ仏教とまた戦うことになり、どうも違うらしい。やはり火の鳥が言うところの宇宙生命だろうか、再版ではスグルの肉体は滅んでいることが明かされているので、現実の世界は考えられないのか。宇宙生命? なんじゃそれは。つまり「生きる宇宙」の一部になると言うことか? それでは続きは火の鳥の登場だけで終わってしまう。スグルたちの目指した「だれにも圧迫されない自由な世界」とは、権力やら宗教やら人間を規律とか法律・慣習とか常識で束縛しない、真に自由なる世界だ、これはもう、手塚が新たな主題を「太陽編」で掲げたに等しい。そこで空想を飛躍させよう。次回作だったらしい「大地編」の舞台は日中戦争下のシルクロードである。「アドルフに告ぐ」を思い出せば、物語は現代のどこかを舞台にして締めくくられたことだろう。「アドルフに告ぐ」の最後は、ユダヤ人にとってのふるさと・イスラエルだったことから、「大地編」のラスト・シルクロードの終着地・奈良?またはそのふるさとのペルシア、そのまた西のローマと考えたけど、手塚のことだから、「大地編」にノモンハン事件を絡ませる可能性もある。となるとモンゴル・・・草原を駆けまわる狗族たち・・・それを遠くから見詰めるのは現代の猿田一族たる手塚・・・絵になりそうだ、モンゴルにはまだ狼もいるし。手塚先生、いかが)。
 作品自体の出来は全編でも群を抜く、文句なしだ。壬申の乱を白村江の戦いから描いた点も「歴史物語」として秀逸である。「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」などによって手塚史観とも言える独自の歴史観を確立した手塚にとって、「壬申の乱は宗教戦争だった」という視点は「仮説」としてもいいくらいの単なるフィクションを超越した発想であり発見である。だか、そうした大構想に未来の宗教戦争である「光族対影」のまったくの空想物語がついて来られない。理由は簡単である、手塚が描きたかったのは仏教問題だった。未来の宗教戦争は物語性を重視した結果独創されたおまけなのである。本編を読めば、どちらに比重が置かれているかは明らかだ。「復活編」での失敗・詰め込み過ぎを繰り返してしまった点が残念だが、「復活編」との違いはきっちりと過去と未来が意味あるものとしてつながっている点だろう。だから物語としての読み応えは充分過ぎるほどある。では「歴史物語」としての「太陽編」の価値はどうだろうか。
 政治と結びついた宗教の浅ましさは戦争にまで発展している。つまり壬申の乱だが、前述通り「白村江の戦い」から物語をはじめる点は見事だ。百済滅亡時、たくさんの百済王族貴族が日本に亡命しているので、ハリマ(後の犬上宿禰)の亡命も珍しくはない。では、「太陽編」で描かれた壬申の乱は歴史的にどこまでリアリティがあるか検証してみる。
 壬申の乱は皇位継承者争いであることに間違いない。「太陽編」での問題は、吉野に引退したはずの大海人皇子が挙兵した訳、そして中央の大友皇子があっさり敗れた訳、また、劇中の戦争がどれだけ史実に基づいているか。
 まず、挙兵した訳。劇中では吉野を封鎖した上での兵糧攻め、さらに刺客を向けられたことに対する反発など、中央(大友皇子)にやられる前にやってしまおう、と言い、直接都(当時のみやこは大津)に向かわず美濃で兵力の増強を図っている。これは日本書紀に取材したもので、手塚は脚色せずにそれを受け入れたようだ。また、登場人物もほとんどが史実に基づいていて、歴史とフィクションの融合が絶妙であり、これは「陽だまりの樹」などによる徹底した下調べが礎になっているのだろう。実際、日本書紀の文章が引用されていて、「火の鳥」にこれまであまりなかった歴史性・リアリティというものを強烈に焼き付けている。では歴史学における挙兵理由はどうか。これは単純に皇位継承争いとみなされる向きが強い。当時の天皇の位がどう継承されていたかを考えれば、明確である。現在は長子相続だが、当時は兄弟相続が一般だった。兄の次は弟、弟の次はそのまた弟・・・そして長兄の長子・・・と順番があった。それを天智天皇が反故にして長子・大友皇子に次位を譲ったのである(大友皇子が天皇に即位したかどうかという問題もあるけど、興味のある方は個人で調べてくれ、ここでは触れない)。大海人皇子がこれを承知するはずなく、慣習にしたがって次位は自分だと訴えて当然だが、また当時は暗殺陰謀などおかまいなしの骨肉の争いが頻繁にあったから大海人皇子は吉野に逃げた(仏門に帰依した)わけだ。これを日本書紀は「虎に翼を着けて放けり」とたとえていて、劇中でも同様のセリフがある(確かめてみるべし)。手塚の勉強振りがうかがえる一端だ。また、こんな説がある。「壬申の乱は百済系対新羅系の争いだ」というもの。つまり天智天皇・大友皇子側が百済系で大海人皇子側が新羅系で、当時の国際情勢も絡まって起きた内乱だという。白村江の戦いは百済復興を賭けた百済王に日本が協力した戦いだが、それを推し進めたのは当然天智天皇、そもそも仏教を日本に伝えたのは百済の聖明王だと言われているし、百済と日本は親密だった。その戦いに勝ったのは唐・新羅連合軍。新羅は後に高句麗も滅ぼし唐も追い出して朝鮮を統一する強国だ、白村江戦後、日本はその新羅の襲来を恐れて北九州の守りを強化していて(教科書でも触れないことだと思う。盲点だと思う。当時の日本を考える上で新羅という強国の存在は無視できないのだが、教科書は無視している。)、緊迫状態にあった。劇中、犬上の出世を助けた阿部比羅夫は筑紫へ派遣されるが、これを犬上は左遷と解釈して憤慨するものの、実際は当時の北九州は新羅からの侵攻に備えるべき重要地点だったのである。また、日本には以前から多くの朝鮮からの渡来人がいて、政治の中枢にも彼らはいた。だから、朝鮮半島の情勢が日本の政治に影響するのも当然なのだ。天智天皇が新羅を恐れ、新羅系の家臣を多く抱える大海人皇子を遠ざけたとも考えられる。もっとも、主人公・犬上は百済王の一族だし、大海人皇子側には百済系の家臣もいて戦っているから、あくまで変わった仮説に過ぎない、蛇足だった。
 次の大友惨敗の訳。劇中では多くの戦闘場面は描かれず、大友皇子側がなにもせずに負けた印象が強い。「乃楽(なら)山の合戦で負けた」という佐々木小次郎演じる大伴吹負のセリフがあるが、これを含めて大友皇子側の勝ち戦は二十数回の会戦のうちわずかニ、三回であり、事実惨敗に近い。劇中で描かれる草原での合戦場面・犬上と韓国が剣を交えることになる合戦はおそらく当麻(たぎま・奈良県北葛城郡当麻町)の戦いだろう、ここで大伴吹負は韓国軍を破っている。
 さて、日本の歴史上で反乱軍が勝利して政権を奪った例はほとんどない。壬申の乱以外では源頼朝の反乱・源平合戦くらいかもしれない。それだけ反乱の成功率は極めて低いにもかかわらず大海人皇子は勝利して即位し、天武天皇となっている。何故敗れたのか、ということについて「太陽編」は触れない。私も調べてみたが、互角の戦いの末に敗れたのならいざ知らず、ほとんど力に押されるままに敗れていて、これは日本書紀をどこまで信用するかという漫画の域を越えた(すでに越えているけど)専門的な話に至るのでやめる。次の問題に移ろう。
 合戦は日本書紀の記事に従っていて、本で調べれば物語と史実の符合の多さに驚く。私が特に注目したのは、犬上川ほとりで展開される大友皇子軍の内紛である。劇中では、犬上宿禰の領地・犬上の里を攻撃するために大陣営を張るものの、将軍に憑依した妖怪によって混乱状態に陥る。これはその通りで、犬上川に軍を置く大友皇子軍は何故か内紛を生じて瓦解している。このことから主人公・犬上宿禰が与えられた領地がどこかはっきりしてしまう(滋賀県彦根市犬上郡)。内紛の理由ははっきりしていないようで、そこに手塚の想像力を発揮できる余地があったわけだ。また、韓国という犬上の宿敵といえる人物も大友皇子軍の中で力戦した勇将のひとりで、乱後の消息は不明である。また、最後のほう、橋の上での合戦は瀬田橋の戦いで両軍最後の死闘、ここで大友皇子側の命運は尽きた。
 ついでにもうひとつ、大友皇子の妃・十市媛(とおちのひめみこ)は劇中で大友皇子に殺されているが、これは史実と異なる。媛は678年、壬申の乱6年後に夭折している。また大友皇子との間には葛野王(669年頃の生まれ、705年没)という子もいて、劇中で14歳と設定されている媛だが無理がある、この辺は物語を盛り上げるための手段として歪曲されたのだろう。
 総じて「太陽編」の壬申の乱は日本書紀から多くを取材した物語となっていて、この作品に賭ける手塚の意気込みは結構強いと思う。これだけ史実(繰り返すが、日本書紀の内容が史実と定義するには疑問があり、そのことについてはここでは論外になるので触れない)に基づきながらも多分に自身の想像した物語を織り交ぜることが出来る構成力には脱帽する。これまで各編の多くをけなしてきたが、やはり晩年の手塚作品の構成力はそれまでとは比べ物にならないほどの完成度がある。「太陽編」は傑作と言えよう。


あとがき
 長い冒険が終わった。結局、「火の鳥」という作品について私なりの結論は出なかった。だが、「火の鳥」を追っているうちに手塚治虫と言う人間の心底に澱んでいた人間に対する嫌悪感を掬い上げることが出来たことは大きい。漫画を読んでいると今なお小説より下等とみなす人々は多いものの、手塚漫画に限ってはなんとなく「いいもの」という偏見があって、私にはどうしても我慢ならなかった。こんなつまらない本が手塚治虫というだけでどうして復刻されるのか、憤りの原因だった。だが、こうした冒険を経て浮かび上がった「火の鳥」のほんの一部の真実に、私は「火の鳥」がけして名作でも傑作でもないことを確信したのである。では「火の鳥」はなんなのか、・・・偉大な失敗作と言えよう。そうして、未完でありながら今なお読み継がれ読者を獲得している強靭な吸引力に、世にたむろする天才と呼称される人々の軽薄な態度・刹那的な顔が、手塚治虫と比べれば虫けらに等しいちっぽけな存在であることに私は驚愕し慄然とする。


 参考文献一覧(順適当)
 手塚治虫「火の鳥」全編(角川書店版、朝日ソノラマ版等)
 手塚治虫「低俗天使」(集英社「手塚治虫名作集5」収載)
 手塚治虫「鉄腕アトム」(朝日ソノラマ)
 手塚治虫「紙の砦」(大都社)
 手塚治虫「ブッダ」(潮出版社)
 手塚治虫「きりひと讃歌」(講談社「手塚治虫漫画全集」)
 手塚治虫「アドルフに告ぐ」(文藝春秋)
 手塚治虫「人間ども集まれ!」(虫プロ)
 白土三平「カムイ伝」(小学館)
 大友克洋「AKIRA」(講談社)
 サン=テグジュペリ「星の王子さま」(内藤濯訳、岩波少年文庫)
 夏目房之介「手塚治虫の冒険」(筑摩書房)
 桜井哲夫「手塚治虫 ―時代と切り結ぶ表現者―」(講談社)
 「平家物語」(新潮社)
 「手塚治虫キャラクター図鑑 3」(朝日新聞社)
 「手塚治虫の世界」(朝日ジャーナル)
 「別冊宝島341 遺伝子・大疑問」(宝島社)
 「別冊歴史読本 壬申の乱」(新人物往来社)
 「別冊歴史読本特別増刊 古代王朝血の争乱」(新人物往来社)


記事タイトル:

手塚治虫「火の鳥」 火の鳥総論 後編

関連ワード :

火の鳥

火の鳥

竹下景子(声優)

分析




毎週木曜日の21時から生放送でお送りしています


>>ニコニコ生放送の公式チャンネル





>> 記事内容の規約違反を報告


 キャラペディア アニメファン10000人ランキング 
149回
148回
147回
146回
145回
144回
143回
142回
141回
140回
139回


キャラペディア公式TWITTER
← こちらの【フォローする】ボタンからフォローをお願いします(^^)v
配信内容:アニメランキング / キャラクターコラム / アニメニュース等
配信頻度:毎日3本~20本程度
毎日、アニメキャラクターを3人ピックアップ!キャラクターの魅力についてのコラムを配信しています。あなたの好きなあのキャラクターのコラムが、今日配信されるかもしれません(^^)vアニメ好き必見の公式TWITTER!要チェックです!週1のアニメランキングもお楽しみに!